2014年09月13日

犠牲者のいる社会

 社会においては、誰かが犠牲になる必要がある。津波に襲われて、原発の風評被害を受けている人がいる一方で、原発があったおかげで、日本の大量にかかる電力を、安い料金で供給できていた。原発を停止したのは、現地住民が被害者であると政府が認定し、犠牲者とはみなさなかったからだ。私がここで言いたいのは、社会を成立させるためには、その代償を支払わなければならないということだ。つまり、全員が社会の恩恵に預かれるわけではなく、一部の人は我慢を強いられ、犠牲となる人が必ず生まれるのである。

 古い言い伝えによると、日本においても、生贄をして災厄を鎮め、人柱をたてて村を自然災害などから守るというような習わしがあったようだ。これについて私は合理的な理由があると考える。つまり、尊い命を犠牲にしたことで、犠牲となった人の命を無駄にはしたくないといった考えが人々の間で働き、その集団が強く生きようとするのである。反対に、みなが犠牲者を出さないように生きていけばよいという社会においては、かえって多くの人が強く生きることをやめてしまい、社会がたちまち立ち行かなくなってしまうのではないだろうか。人は、犠牲の上において初めて成り立つものなのである。だからこそ、常日頃から、自分のまわりで起こった犠牲を忘れることなく、強い心でしっかりと受け止めて生きていくべきなのであり、そのことが社会で求められていることではないだろうか。

 話をかえて、北朝鮮の拉致問題である。なぜか日本は北朝鮮と交渉し、無意味な調査機関と北朝鮮への制裁解除を取り付けたのであるが、本来、拉致された人々は、もう死んでいると思って話を進めるべきであり、そのような人たちを二度と生み出さないためにも、国内での入管法の見直し、スパイ防止法による徹底した法整備をまずは行う必要があるのではなかろうか。確かに、感情的に言って、被害に遭われた方々には同情の余地があり、拉致された人を返してほしいのは、すべての日本人が思うところである。しかし、そのことと、わざわざ外交的敗北を喫してまで、北朝鮮をさらに冗長させる意味はどこにあるのだろうか。

 話はもどり、現代社会において、犠牲になるとは一体どういうことなのか。犠牲を無意味にさせないためには、いったいどうすればよいのか。戦争をしていないのに、国内で自殺する人が二万人を超えるということに対して、生きている人はそこからどのような意味を見出し、どのような行動を起こしていくべきなのだろうか。第二次世界大戦では二百万人の犠牲者が出たが、それに比べると二万人は少ないから大丈夫だという受け止め方が日本国内で広がっているのだろうか。自分の感情的には、彼らのことを、意味のある犠牲者であると思いたいが、実際には単なる無駄死になっていないだろうか。
posted by シンジ at 22:13| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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