2014年09月06日

日本の戦前の道徳

 日本の戦前の道徳について書いてある本があったので、川合清丸著「大和魂」より本文を引用したい。

道徳 

 天はわが国に、陰陽中和の賜を与えたり。地はわが国に、水土膏朕の恵を垂れたり。このゆえにわが国民は墾せば良田を得、植えれば良林を得、耕織すれば衣食足り、築造すれば家室給し、衣食住の需め不足無きがゆえに、古来人と人との、生存競争を要せざりき。それだけでなく絶海の仙境に位して、大陸と波涛を隔てるがゆえに、古来国と国との、生存競争に預らざりき。これをもって競争より生ずるところの、嫉妬、偏狭、猜疑、狡獪等の情弊を免れて、おのづから寛裕、温柔、親愛、和合等の性徳を養いたりき。このゆえにわが国は、相推し相譲るを、道徳として貴び、相争い相奪うを、不道徳として賤しむること、わが国の通性なり。
 それ天は宇宙の主宰なれども、天みづから手を下して、天下を主宰せず。天は万物の司命なれども、天みづから手を下して、万民を司牧せず。必ずこれを皇上に命ず。これにおいて皇上すなわち天の心を心とし給い天に代わりて、天下万民の為に、天道を斡旋し、天命を執行し給う。これの故に皇上は国民の天なり。わが皇上は、かかる無上至尊にましましながら、古より万民を大御宝と称し給いて、あらゆる安寧幸福を、万民へ与え給はんと、常に宸襟を悩まし給へり。されば天下に大難あるにあたりては、玉体をもってこれに代わり給はんと、皇祖に祷らせ給ひし至尊まします。これ己尊の安寧幸福を、国民に護らせ給うをもって、皇上の道徳とし給へばなり。
 されば一般の国民も、おのづからこの道徳に化せられて、国家無事の日にありては、貴賤貧富を問わず、業を励み職を勉めて、皇上の良民となるを忠とし義とし、一朝事有る時には、智愚賢鈍を論ぜず。一切の私心私情を忘れ、全力を王事に尽して、皇上の忠臣となるを、分とし栄とす。もしその殉難の時至れば、皇上の万歳を三唱して、欣然と笑を含みて逝く。この時にあたりては、父母妻子、兄弟朋友、国民一般も、またこれを忠義とし、名誉として、称賛措かず。しかしてこの間に、一点の疑念を挟む者無し。
 これ己が一切の安寧幸福を、皇上に推し奉るをもって、臣民の道徳とすればなり。さてこの道徳は、溢れ昇りて、皇上の道徳に和し奉り。皇上の道徳は、溢れ降りて、臣民の道徳を誘い給い、升降循環、唱和往来して、遂に皇上は元首、臣民はその腹心、股肱、耳目、爪牙にて、臣民の皇上を戴き奉ること、手足の頭目を防ぐがごとく、皇上の臣民に臨み給うこと、頭目の手足を護るがごとく、全く一身一体の働きとなりぬると同時に、天地の化育、国家の安寧、君民の幸福、おのづからこの間に、円満に成り立ちて、また一点の遺憾無し。何ぞ一念の怨嗟あらんや。これぞわが国道徳の骨髄にはありける。(しかるに近年、西欧の学伝播せしより、軽佻の徒、わが道を学ばずして、みだりにかの学に耽り。わが臣民にして、往々民権論を主唱する者出づ。そもそもこの民権論は、上に暴君を戴ける外国民の首唱するところ、すなわちわが国に不道徳として、賤しめつる争奪論なり。これを君民相推し、上下相護るのわが国に移し来るは、わが高尚優美なる真個の道徳を、破壊するものにて国家の不詳、これより大いなるは無し。概するに堪うべけんや。)

 次に天は万物を生育し給へども、天みづから手を下して、人類を生産鞠養せず。必ずこれを父母に命ず。これにおいて父母すなわち天の心を心とし、天に代わりて、子女を生育鞠養す。このゆえに父母は子女の天なり。父母はかかる尊き者ながら、子を子宝と称して、寒暑昼夜を選ばず、風雨水火を避けず、困苦艱難を辞さず、唯慈育愛養を尽さんことを思う。このゆえにわが身に吉事あれば、子をそれに代わらしめんことを願い、子の身に凶事あれば、われそれに代わらんことを願う。これ己が安寧幸福をあげて子に譲り与うるをもって、父母の道徳とすればなり。
 されば子たる者は、よく愛敬の道を尽して、生前においては、父母の身体と心志とを養い、己が安寧幸福をあげて、父母に推しまいらするを本義とし、没後に至りては、よくその神に仕え、よくその志を継ぎ、よくその事を述べ、またよく己が子にこれらの事を成さしめて、父母の名をあげ、祖先の美を顕するを、子の道徳とするなり。(しかるに近年、西欧の学舶戴せられしより、往々この父子の道を誤りて、父子互いに栄華を競い骨肉互いに権利を争う者出づ。昔にありては、人面獣心の行いとして、賤民もこれによわいせざりしに、今は文明開化の俗として、士夫もこれを怪しまざるに至る。概するに堪うべけんや。)

 次に天は国家社会を覆幬すれども、天みづから手を下して、国家社会を組織せず、必ずこれを男女夫婦に命ず。これにおいて男女夫婦は、天の業を業として、天に代わりて国家社会を組織す。されば男女夫婦は、天地陰陽の標本なり、国家社会の元素なり。その道徳たる、深く考究せざるべからず。それ男は陽にして、多く天気を稟け、女は陰にして、多く地気を稟く。天気は神に属するがゆえに、男は精神をもって勝ち、地気は質に属するがゆえに、女は形質をもって勝つ。男は天なるがゆえに率い、女は地なるがゆえに従う。男は陽なるがゆえに、剛健を徳とし、女は陰なるがゆえに、従順を徳とす。男は剛なるがゆえに、決断に長じ、女は柔なるがゆえに、忍耐に長ず。男は健なるがゆえに、外事に当り、女は順なるがゆえに、内事に当る。男は決断に長ずるがゆえに、国事に任じ、女は忍耐に長ずるがゆえに、家事に任ず。男の智は日のごとし。たとえ雨日なりといえども、内外に明暗無し。女の智は月のごとし。たとえ霽月なりといえども表裏に光影あり。およそこれらは、男女自然の天性にして、乱るべからず、変うべからず。これを男女別ありという。別とは差別なり。
 さてこの男女配偶して、夫婦となるも、この差別は乱るべからず、変うべからず。ゆえに夫婦にもまた別の道あるなり。それ男の多く天気を稟くるや、その幣放縦に流れやすく、女の多く地気を稟くるや、その幣固執に堕ちやすし。ゆえに妻の固執は、夫の放縦を繋ぐべく、夫の放縦は、妻の固執を寛ぐべし。それ男の精神をもって勝つや、動もすれば真率に失いやすく、女の形質をもって勝つや、動もすれば修飾に過ぎやすし。ゆえに夫の真率は、妻の修飾を制すべく、妻の修飾は、夫の真率を裁すべし。それ男の先に率いるや、その弊勇住奮進に過ぎやすく、女の後に従うや、その弊逡巡退避に過ぎやすし。ゆえにその勇住は、妻の逡巡を制すべく、妻の逡巡は、夫の勇住を裁すべし。それ男の剛健なる、その弊折れやすきにあり。女の従順なる、その弊撓みやすきにあり。ゆえにその剛健は、よく妻の撓みやすきを扶け、妻の従順は、よくその折れやすきを持つ。それ男は決断に長じて、忍耐に短く、女は忍耐に長じて、決断に短し。ゆえに夫の長は、もって妻の短を救い、妻の長はもって夫の短を補う。それ男の外事に当るや、必ず内に待つところあり、女の内事に当るや、必ず外に待つところあり。ゆえに夫は妻を待ちて、初めて功を外に立つべく、妻は夫を待ちて、初めて績を内に成すべし。それ男の智は鈇鉞のごとく、大事に利くして、細事に鈍し。このゆえに国事に任ず。女の智は剃刀のごとく、細事に利くして、大事に鈍し。このゆえに家事に任ず。およそこれらの夫婦別あるの道は、各々己が長所短所に立ちて、しかして長短相推し、特質相譲り、剛健相救い健順相輔くるの法にして、国家社会の表裏細大の事、これによりて皆挙がる。これを夫婦の道徳とす。(しかるに近年、西欧の学束漸せしより、世間往々、女尊男卑の説、あるいは男女同権の論起こる。これをわが国の男女別を立てて、しかも相推し、夫婦位を正して、しかも相譲るの道に比すれば、ただ浅薄没趣味なるのみならず、実際の道と相違えること遠く、またこれ畢竟不道徳の争奪論に帰す。概するに堪うべけんや。)

 これを要するに、君は臣の天なり。夫は妻の天なり。皆天の心を心として、天に代わりて、化育教導するものなり。されば臣の君に仕え奉る時、ひたすら君を天と奉じて、君の外に別の天を戴かず。子の父に仕うる時、ひたすら父を天と奉じて、父の外に別の天を戴かず。妻の夫に仕うる時、ひたすら夫を天と奉じて、夫の他に別の天を戴かず。常に恒に赤心を、そのところ天の身辺に捧ぐるを道とす。これ地の卑しきに居つつ、時々刻々、その気を上昇して、天に参するにのっとるものなり。さてまた天は高きに位しつつ、時々刻々、その気を地に下降して、一切万物を生養芙息するがごとく、君父夫は常に恒に赤心を、臣子妻の腹中に置きて、一切の安寧幸福を、その間に生長発達せらるるように、興起振作するを道とす。これぞわが国の、君父夫を人倫の三綱とし、百般の道徳を、忠孝貞に本づけて、国家社会を組織すると同時に、よく天地にのっとりて、天恩地徳に報答するゆえんの梗概にはありける。

 この道徳の文章で興味深いのは、欧米を起源とする女尊男卑の思想は、自らの歴史に対する反動ととることができるとという点に気付かされるところにあると思う。つまり、その思想は自民族の残虐性を覆い隠すための口実であり、心の奥底では、自分たちのしてきた罪を悔い、恥じており、その罪滅ぼしとして彼らが広めてきた思想だと考えられる。リベラルな思想の起源が欧米からであるということから、推論できることかと思う。
posted by シンジ at 11:59| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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